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世界的に減少しているトド、アザラシ、海鳥たち       
        野生生物に迫った 食料危機!

人がニシンを絶滅に追い込み、トドたちの食料を奪った
海獣・海鳥たちは食糧難の被害者!

 1. 日本のニシン (鰊) 漁  最盛期(乱獲)から絶滅
 2. 外国では健全な生態系で、人も生物も共生・共存
 3. 人が奪ったトドや海鳥たちの食料  
トドや海鳥はいったい何を食べればいいの ?
 4. 人は何でも食べるが、人間だけの生物資源ではない
 5. 漁網の被害は海鳥にも
 6. 本当の意味での被害者は、人類以外の生物
 7. 末永く、人と他の生物と共存・共栄をするために
 8. 天売島の歴史




 1.北海道のニシン(鰊)漁  最盛期(乱獲)からニシン絶滅
 道北を旅したとき、土地の人が番屋(ニシン御殿)の話をしてくれた。
  「明治30年頃は、ニシンの大群で、金波・銀波の波が浜に打ち寄せていた。
   そりゃー 海、一面がニシンの群れだった」
  「当時、親方はニシン漁で莫大なお金を儲け、番屋(ニシン御殿)を 建てた。
   建築費を惜しまず、高価な木材だけを使って、ニシンの番屋を 建てたもんだ。
   毎晩、贅沢三昧のニシン御殿で酒に浸って、親方はそれを自慢したもんだよ。」
 と、ニシン漁で黄金時代(?)だった頃を話してくれた。
 

 その話を聞いて、北海道のニシン漁について調べた。
  1897年(明治30年) 産卵のために日本海に来たニシン97万5千トンも漁獲していた。
              日本のニシン漁に漁獲制限というものがなく獲れるだけ獲っていた。
  1956年(昭和31年) 乱獲によってニシンの群は北海道から姿を消し、生態系が壊れた
  1957年(昭和32年) 北海道のニシン漁は、終わった
 ニシン漁が終わり、生活が困窮になった漁師は借金で家も失ったが、当時、こつこつと働いたお金を貯めて
 家を建てたサラリーマンの方が漁師より裕福な生活になったそうだ。

  (ニシン漁最盛期の様子を示す「ニシン御殿」は、今では観光スポットとして残っているだけ)


 2.外国では健全な生態系で、人も生物も共生・共存  
 映像で観たアラスカ沖のニシン大群は、群れというよりも大きな黒い固まりとなって海面に浮上していた。
 そのニシンの群れをクジラ数頭が囲み、かけ声を「イチ・2のサン」と、かけたかどうかはわからないが、
 クジラの大きな口で一気にニシンの群れを飲み込んだ。
 その映像を観たとき、北海道の土地の人が話してくれたように、これほど大量のニシンがいたのだろう。
 陽に光るニシンの群れは、まさしく金波・銀波のようにも見えた。 
 
 毎日、アラスカ沖で大量のニシンが漁獲され、また、食物連鎖においてクジラにも食べられているが、
 このような自然界の食物連鎖においてニシンは絶滅しない。
 しかし、北海道では人間にだけ都合の良い活動によって、ニシンを絶滅にまで追いやった。
 それは、クジラ、トド、アザラシ、海鳥たちが食料としているニシンの量よりも、
 はるかに多くのニシンを人間が乱獲によって奪いとったか、ということになる。
 先々のことを考えて漁をつづけるアラスカの海には、今も豊かで健全な生態系がある。

 3.人が奪ったトドや海鳥たちの食料  トドや海鳥はいったい何を食べればいいの?
 北海道でニシンが姿を消して、[サケ・マス流し網] [タラ、カレイの刺し網] 漁にかわった。
 北海道の漁場には、地球上に人類が登場する以前からトドをはじめとする海獣たちが越冬している。
 その海獣たちは、ニシンが絶滅したことから、刺し網の中に入っているタラを捕食するために、
 刺し網を破ってタラを食べた。
 人がニシンを絶滅させなければ、トドは漁網を破る必要がなかった
 
 
ところが、「魚網への被害だ。漁獲高の減少だ。収入減だ!」と海獣たちを銃殺した。
 トドにしてみれば、人がニシンを奪ったことから食料難となって、タラを捕食しただけだ。
 漁網を食い破られたことは、人がトドの餌を横取りしたためである。
 ニシンは人のためにだけある資源ではなく、海の生物資源は海洋生物と人との共有資源である。 
 
 ニシンが豊富にいた当時、トドによって起きた漁網への被害はほとんどなかったそうだ。
 その当時は、生態系のバランスがとれていたのだ。
 「ニシンが姿を消して以来、漁網への被害が拡大していった」という。
 「被害は漁民に対してだけではない。 トドこそ被害者だ」と強く言いたい。 
 
 人はニシン漁ができなくなって、次はタラを漁獲して減少させ、
 トドや海鳥はいったい何を食べればいいの?

 魚を漁網で根こそぎ捕られる被害を受けたトドは、魚網を破って仕返をしたのだろうか。
 それとも、網を食い破ってタラを網の外へ逃がしてあげたのだろうか。
 漁網を食いちぎらざるを得ないまでに追い込まれたトドやアザラシは減少している
 そのトドこそ、人に食料や自然環境の補償を願いたい心境に陥って、苦しみもがいているに違いない。

  4.人は何でも食べるが・・・人間だけの生物資源ではない
 人は海の物、山の物、動物、野菜・果実・・・などなど、何でも食べる。
 しかし、人以外の生物は、「ここで、これしか食べない」という食べ物がある。
 野生のトド、アザラシ、オットセイなど海獣は、その生態系に生息する魚しか食べられない。
 
 前述したように人はニシンでも、タラでも、マグロでも、ブリでも、カツオ、タイ
・・・何でも喰う。
 そのうえ、日本の海域へ産卵のために来たニシン、タラ、鮭などを捕獲し、
 魚卵から数の子、明太子、イクラなどの加工食品をつくって食べる。
 産卵のために来た、おびただしい魚を捕獲すれば、やがて魚は減り、野生生物や人類にも危機が迫る。
 後先を考えず、絶滅に追い込んだ「ニシンの教訓」を忘れてはならない。

  5.漁網の被害は海鳥にも
 毎年、漁網に引っかけられる被害を受けて、死ぬ海鳥の数も少なくない。
 海鳥も人類が島に登場する前から、そこを繁殖地としていた。
 
 海鳥の繁殖区域へわざわざ漁網を仕掛け、未だに海鳥を犠牲にした漁を続けている。
 魚は海鳥たちの食料でもあり、人だけにある生物資源ではない。
 
 1938年(昭和13年) ウミガラスは40,000羽以上もいた。
 1960年代から70年代、島周辺で盛んに行った[サケ・マス流網]漁による混獲で、おびただしいウミガラスが犠牲
 2002年(平成14年) ウミガラス13羽に。1938年時の四千分の一に激減し、絶滅の危機
 
 絶滅の危機になった、もう一つ考えられる訳は、
 1957年(昭和32年) ニシンが姿を消した時期海鳥減少時期合致することも大きな理由。
 そのことは、後述の天売島の歴史からもわかる。


  6.本当の意味での被害者は、人類以外の生物
 「人類は他のどの生物よりも強い」という。
 しかし、人が銃などの武器を持たずに野生生物の生息域へ入ったとき、人は食物連鎖の頂点に立てるだろうか。
 人は銃を持っていなければ、食物連鎖においてライオンやトラやトドに喰われ、頂点に立てないだろう。
 魚類、漁網、農作物などが他の生物の被害にあったことで、彼らを銃殺してはならない。
 人だけにある生物資源ではない。
 彼らにも、生態系の中で生物の恵みを受けて生きる権利がある。
 
 人類が道具を使うように進化したのも、漁網を使うように進化したのも自然。
 けれども更に人類は進化して、 他の生物と共に生物の恵みを分かち合いながら
 共存・共栄できる環境へと、進化してゆかなければならない。

 人間は野生生物の被害者ではない
 海獣に漁網を食いちぎられたり、鹿や、イノシシや、猿などに農作物を荒らされて被害を受けているのは、
 そもそも人が生物の食料を奪ったり、彼らの棲める自然環境を破壊したことによって起っている。
 本当の意味での被害者は、人類以外の生物、彼らたちではないだろうか。


  7.末永く人と他の生物と共存・共栄をするために・・・
 野生生物が漁網を食いちぎらないために、漁網へ近づかないような音を出す実験が行われた。
 しかし、彼らは2週間で、その音に慣れてしまったそうだ。
 とにかくニシンの二の舞にならないために・・・

 
 ・産卵域に来た子持ち魚 (卵を持った魚) の漁獲制限はできないのか。
 ・魚類・鳥類などの繁殖域では、一網打尽の刺し網・流し網をやめられないのか。
 ・生物の繁殖期には、繁殖区域での操業をやめなければ、ニシンの二の舞に・・・
    または、海鳥の繁殖域、海獣の越冬域から10km以内での操業をやめられないのか。
    さらには、島の周囲が15km未満で、海鳥の繁殖地・海獣の越冬地がある島は無人島にできないのか。
 ・魚卵を利用してつくる加工食品の量を制限できないのか。
 ・魚種別に、漁獲海域から消費地までの距離を制限できないのか。
    人は居住地域に近い魚を食べれば、遠隔地向け出荷・漁獲量を減らせるが・・・
 ・山の木を保全・再生して、生物が好んで棲める水域・海域の自然環境をつくる。


天売島の歴史

表は天売島の歴史の中で、海鳥(ウミガラス、ウミネコ)の著しい減少と漁業の関係の表。

年   号
歴       史
ウミガラス
生息数
ウミネコ
生息数
西 暦
和 暦
紀元前
5000頃
縄文時代前期
 天売島に人が住み始める。
900-1200頃 
.
 縄文文化(最後の土器文化)がこの島に及ぶ。
1667
寛文 7
 「松前蝦夷図」に初めて「テウリエゾ」の名が現れる。
1786
天明 6
 島で漁場経営とアイヌ民族との交易を請け負う。
 島民アイヌ人12人。主な産物はニシン、アワビ、ナマコ、タラ、昆布など。
1792
寛政 4
 ニシン漁のために出稼ぎに来ていたアイヌ人23人が遭難。
1807
文化 4
 西蝦夷地、幕府領となる。
 この頃、天売とは
無人島となり、焼尻、苫前、手塩のアイヌの出稼ぎ地となる。
1857
安政 5
 初めて和人漁民の出稼ぎが許可され、
 秋田・津軽の漁民3人(雇漁夫39人)が
ニシン漁を始める
1869
明治 2
 明治政府開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改め、国郡を設定。
 天売島は手塩国苫前郡に属す。
1871
明治 4
 この年の出稼ぎ漁民、男鹿(秋田)7人、松前1人(雇漁夫11人)。定住者なし
1875
明治 8
 津軽の人 熊本兵作移住 楢原漁場の管理人として家族と共に初めて越冬
1880
明治13
 焼尻外-戸村長役場の管轄区域となる。12戸、234人。
1883
明治16
 曹洞宗説教所創建され、寺子屋式教育が始まる。
1902
明治35
 天売・焼尻のニシン漁船70隻が天売港で暴風のため転覆、死者228人。
1903
明治36
 天売水産組合設立。
1904
明治37
 ニシン建網(定置網)50統、同刺し網7,766放、
 
漁獲高15,000石(一石=生ニシン750kg)、入稼漁夫2,500人。
1906
明治39
 2級町村制施行で天売村役場と改称。
 
415戸・1,876人島史上最高記録)、ニシン漁不漁期に入り、島民の生活困窮
1908
明治41
 タラ釣り漁船34隻遭難、死者230人。
1920
大正 9
 ニシン大漁、約30,000石 (最高記録)(一石=750kg)。
1933
昭和 8
 苫前・焼尻・天売を結ぶ航路開かれる。
1938
昭和13
 海鳥繁殖地が国の天然記念物として指定。 ウミガラス40,000羽。
40,000羽
1948
昭和23
 海鳥糞採掘問題発生。
1950
昭和25
 発電所設置。
1954
昭和29
 灯台新設。天売高校新設。
1955
昭和30
 羽幌町と合併、大字天売と改称。
1956
昭和31
 ニシン凶漁、以後ニシン漁業消滅。 ウミガラス激減
1963
昭和38
 鳥類研究者 黒田長久、天売島海鳥調査実施。 ウミガラス8,000羽。
8,000羽
1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた[サケ・マス流し網]漁業による混獲で、おびただしい数のウミガラスが犠牲になった。
1964
昭和39
 天売・焼尻道立自然公園指定。
1972
昭和47
 環境庁、天売島のウミガラス1,117羽と報告。焼尻天売への観光客約5万。
1,117羽
1980
昭和55
 ウミガラス 553羽。
553羽
1980年代から[カレイ・タラの刺し網] がトドに食いちぎられる被害にあう。
1982
昭和57
 天売島、国設鳥獣保護区に指定。
1986
昭和61
 ウミネコ60,000羽。
60,000羽
1989
平成元年
 フェリー「おろろん」就航。
1990
平成 2
 暑寒別天売焼尻国定公園指定。屏風岩にウミガラスのデコイ設置。
1991
平成 3
 羽幌町が常駐の海鳥調査員を配置。
1997
平成 9
 羽幌に北海道海鳥センター設置。
2000
平成12
 ウミネコが半減し、30,000羽に。
30,000羽
2001
平成13
 コオナゴ、ホッケ不漁。 ウミガラス21羽。
21羽
2002
平成14
 ウミガラス13羽で絶滅の危機
13羽
2004
平成16
 ウミガラス20羽飛来し、観察史上初、繁殖数0羽となった。   
繁殖数0羽
2005
平成17
 ウミガラスの繁殖は2年連続ゼロ、ウミネコの繁殖も絶滅となった
繁殖数0羽
繁殖数0羽

表からもわかるように、海鳥や他の生物が豊かなときは、豊漁だった。
しかし、魚もすめない場所では、海鳥も海獣も人も生活できない。

野生生物と共生・共栄できるように、いま人間活動・漁法の改善を真剣に考えなければ、
今日、野生生物に起きた悲劇は、明日は人に降りかかってくることになる。


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